[796]画像とテキストがもたらした功罪

~フリーランスライターがつづる、人生を楽しむヒント~

前回、あまりに料理のレベルが高いと、テキストで表現しきれないという話をしました。
得体が知れないから神様なのであって、描写できるんだったら、それは人間だろうと。
つまり、想像する余地のあった方が、描写の射程距離は長くなる。
ガチガチの説明は、リアルを伝えるけれども、その一方で対象物に枠をはめてしまうわけです。

写真がなかった時代は絵でしたから、それを元に、各自がイマジネーションを膨らませられましたよね。
また、描写方法も抽象的でした。雲の一部が竜になっていたり、天女や神様を表したり。
もしかしたら、筆そのものが写実に向いていなかったのかもしれません。
とにかく、「実際はどうなってんだろう」というのりしろを含ませることができたわけです。

796.jpg
「オバサンが曲を弾く屋外ライブ」とは、誰も考えなかった

ところが、写真の場合、捉え方が違ってくる。
「オバサンのソロより、アイドルグループがいいのに」
「まともな音響施設ねぇのかよ」
「手作りギターって・・・まともな音出るのか」
そうじゃないですよね。

その意味で、レジャーという概念は、カメラがもたらした余波だという気がしてきました。
例えば山岳。
それまでは、修行の場か、「講」という宗教がからんでいたわけです。
「何だか良くわからん場所」というのが大前提で、一般人がフラっと行く場所ではなかった。
なのに、写真を撮られ、テキストで解説され、リアルが伝えられるようになると、観光地に様変わりするんですな。
のりしろが一切ないわけですから、見たとおり、書いてあるとおりに踏み入れられる。
っていうか、もう、行く必要ないじゃないですか。

ですからね、あまりイマジネーションをそぐような書き方は、どんなものかと。
最近、そう思うようになってきました。
ただ、シロウトが書くような「不十分」ではダメなわけで。
枠の外がしっかり伝えられるような枠というのかな、抽象的な具体表現というのか、たぶんそのまま書いちゃダメなんでしょうね。
富士山にしても、子どもが描くようなストレートな形じゃなくて、湖面に反射したり、夕日に染まったり、そういうところから本質を臭わせるというのか。
振りすぎてもダメだし、難しいですよね。
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Author:てつまる
神奈川県を中心にフリーで活動しているライターです。
超IT系を除き、医療・各士業・経営者・アスリートへの取材、アーティストプロモート(情報発信)、イベントレポなどを手がけています。

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